「病んでるツイート」って、そんなに悪いものなのかなあ?の巻
初投稿です。
まさか自分がブログを書く日が来るとは。
小学校高学年くらいの時に、当時ブログがめちゃくちゃ流行って、
そのとき親にブログさせてもらえなくて喧嘩したのを、
ふんわりやんわり思いだしました。
(これ、「この世代あるある」な気がする。気のせいかな。。。笑)
ブログのタイトルを、
「ハタチのリケジョ大学生のブログ」
としたんですけど、
書く内容としては主に、日々頭の中で考えていること・感じていることを、
つらつらと書き留めるメモのような場所にしようかなと思っております。
名付けたはものの、理系要素あんまり出てこないかもしれない。。笑 どうしましょ。。
あ、ちなみに、少しだけ自己紹介するならば、
大学に通っている、現在二十歳の学生です。
さて、本題。今日は「病んでるツイート」について、なんとなく思うこと。
最近はSNSの盛りで、いつでもどこでも思っていることを発信できるtwitterが現れ、
つぶやきにもその人のカラーが出るようになった。
でもそれと同時に、
「SNSで病んでる発言しんどいな〜」
とか、
「意味深発言、勘弁してほしいわ〜」
という意見もちらほら聞くように。
でも私はむしろ言いたい。
病んでる(意味深)ツイート、結構よくない?
・・・頭がおかしな女子大生もいるもんやな。。という声が聞こえてきそうだけども笑
Aqua Timezさんの「決意の朝に」という曲の歌詞に、
「辛いとき 辛いと言えたら いいのにな」
というフレーズがあって、
普段はあまり歌詞には感動しない自分が、
未だに忘れられない言葉。
感情を隠すこと、我慢すること、みんなと合わせること、マジョリティーでいようとすること。
感情をあらわにしないことを良しとしている風潮って、
私たちの首をしめてるって、本当に思う。
ビジネスの世界では、効率化とか伝わりやすさの観点から、
感情を挟まずポンポンとタスクをこなすのはわかる。
集団行動という意味でも、
均一化された方が楽だからこそ、
個々の感情は後回しにされがちな気がする。
けれど、それを私生活にも反映させて、
そこでも「自分の感情の幅を狭める」ことって、
なんだかもったいないなって、個人的には感じてしまう。
人間って、感じ方の大小個人差あれど、
もっと感情の溢れた生き物なんじゃないのかなあ。
物の見方、感じ方、聞こえ方
感動、喜び、悲しみ、怒り
他にも、こういう言葉にできない、あるいはまだ定義づけられていない、感情たち。
「自分と全く同じ感じ方」をしている人なんて、この世にもしかしたら他に誰一人としていないんじゃないか、と思う。
だけど、私たちは日々、恐らく存在しないであろう
「感情のマジョリティー」という軸に、常に自分の感情を合わせようとする。
「ここで怒ると非難されそう」
「ここで笑うのは恥ずかしい気がする」
「ここで泣くと弱い人間だと思われる」
など。
でも、私的には叫びたい。。。
「もっと感情を素直に表に出してしまえばいいのに!!」
ある人の「ものの感じ方」がその人の
過去を表し、現在を形成し、未来を示してくれる
のではないかなあ。
感情を押し殺すことは、なんとなく、「あなたという存在」を自ら殺してしまうような気がしてしまうんだよなあ。
感情が抑制された中で生きていくといずれ、
自分がどういうものが好きで、どういう時に幸せを感じるかが、
わからなくなってしまうんじゃないかなあ。
もっとこの世の中が、様々な「感情マイノリティー」に対して、
オープンになったら素敵だな、と、
ぼんやりと考えている、雨の日の朝です。