ハタチのリケジョ大学生のブログ

気張らず、焦らず。何となく浮かぶ心の本音を書くブログ。日々、外の世界に対して思うこと・感じることを、ゆるくつぶやくように書きます。ぼーっとすることが好きです。

社会が「多様性」に対して寛容にならないのは、SNSのせい!?

投稿2回目!

一日一回の投稿を目指したいところです。

 

さて、最近私が考える機会の多い、「多様性」について。

 

近々、性的マイノリティーだったり、人種の問題だったり、

様々なマイノリティーが注目を浴びるようになってきました。

 

最近の世の中って、ちょっとづつ、

・「人と違うこと」「多様性」に対して前よりも寛容になろう

・または、人と違う自分と向き合い、受け入れよう

という感情があらわになりつつある気がします。

 

そしてその発端の一つに、身近な情報源としての、

SNSの存在もあるのかな、と推測します。

 

でも、SNSなどを通じてマイノリティーに興味を持たせることができても

SNSはその先の、「個々人の認知・行動のフェーズ」まで人を導けていないのではないでしょうか。

むしろその逆で、最終的にSNSは人々の「行動」を

「押さえつけて、均一化」

しているのではないでしょうか。

 

。。。と、のど飴を舐めてる時に浮かびました。(きりっ)

 

マイノリティーの声を上げる場所を提供しているSNSが、

逆の効果になりうることなんてあるのか?

 

私があり得る、と考えるその理由・・ズバリ、

 

「いいね」の存在

 

です。

 

「いいね」と言うのは、恐ろしい。

ある意味、「共感するよ」という、ある種の相手への「肯定」「承認」の形じゃないのかなと感じます。

 

facebookinstagramtwitterはじめ、様々なSNSユーザーならなんとなく共感してくれるであろう、

 

SNSの投稿、みんな個性無さすぎちゃうちゃう?問題。

 

例えば私のインスタの場合:

あるある度100%「彼氏との記念日」

あるある度 80% 「サークルの飲み会」

あるある度 70% 「ゆうこ誕生日会」

あるある度 50% 「カフェ行ってきた」(斜め上から撮ったラテアートの写真と共に)

 

 

これほども、内容が似ていると、

ちょっと怖いなと感じてきてしまうほど。

 

特に恋愛関係の投稿になると急に「いいね」が急増する件。不思議。

世の中でこれほどリア充爆発という単語が聞こえてくるのに。。。(?)

 

・・・話がだいぶ逸れましたが、

SNSって無意識に、「いいねをもらえる」投稿をしてるんじゃないかなと思うんです。

 

つまり、

みんなにいいねをもらえるような自己発信を、無意識的にしてしまっているんじゃないかな

と、私自身使っていて感じます。

 

だから、どれだけSNSなどでマイノリティーはじめ世の中の課題などを知ることができても、

それに関して個々人がそれぞれのレベルまで落とし込むことができていない気がしています。

 

例えば、何か自分が関心がある課題があるとしても、

それに対して「いいね」してもらえるのか

フォロワーや「友達」はどう思うのか

 

そうしているうちに、投稿の内容も均一化されて行ってしまうのでは、

つまり、

 

「私」という存在、つまり、「自己表現」が、

SNSの「いいね」の存在により制限されて均一化されているのでは!?

 

と感じています。

 

「いいね」というのは、自己の承認欲求を満たすものであり、

それゆえにSNSへの中毒性を高めるものだと感じています。

 

だけど、そのSNSの罠ゆえに、

個々人の思考や表現の幅を狭められてる気がしてならないなあ・・・

 

人々に興味を持ってもらえて、

かつその個々人のこれからの行動まで誘発できるSNSの形って、ありそうでないものだなあ・・・

 

マイノリティーの存在を世の中に知らしめているSNSが、

最終的に逆に様々な「マイノリティー」の存在を押さえつけてるのなら、悲しいなあ・・・・

 

そうなんとなく感じているブラックコーヒーの朝です。

 

 

 

 

「病んでるツイート」って、そんなに悪いものなのかなあ?の巻

初投稿です。

まさか自分がブログを書く日が来るとは。

 

小学校高学年くらいの時に、当時ブログがめちゃくちゃ流行って、

そのとき親にブログさせてもらえなくて喧嘩したのを、

ふんわりやんわり思いだしました。

(これ、「この世代あるある」な気がする。気のせいかな。。。笑)

 

ブログのタイトルを、

「ハタチのリケジョ大学生のブログ」

としたんですけど、

書く内容としては主に、日々頭の中で考えていること・感じていることを、

つらつらと書き留めるメモのような場所にしようかなと思っております。

名付けたはものの、理系要素あんまり出てこないかもしれない。。笑 どうしましょ。。

 

あ、ちなみに、少しだけ自己紹介するならば、

大学に通っている、現在二十歳の学生です。

 

 

 

さて、本題。今日は「病んでるツイート」について、なんとなく思うこと。

 

最近はSNSの盛りで、いつでもどこでも思っていることを発信できるtwitterが現れ、

 

つぶやきにもその人のカラーが出るようになった。

 

でもそれと同時に、

SNSで病んでる発言しんどいな〜」

とか、

「意味深発言、勘弁してほしいわ〜」

という意見もちらほら聞くように。

 

でも私はむしろ言いたい。

 

病んでる(意味深)ツイート、結構よくない?

 

・・・頭がおかしな女子大生もいるもんやな。。という声が聞こえてきそうだけども笑

 

 

Aqua Timezさんの「決意の朝に」という曲の歌詞に、

 

「辛いとき 辛いと言えたら いいのにな」

 

というフレーズがあって、

普段はあまり歌詞には感動しない自分が、

未だに忘れられない言葉。

 

感情を隠すこと、我慢すること、みんなと合わせること、マジョリティーでいようとすること。

 

感情をあらわにしないことを良しとしている風潮って、

私たちの首をしめてるって、本当に思う。

 

ビジネスの世界では、効率化とか伝わりやすさの観点から、

感情を挟まずポンポンとタスクをこなすのはわかる。

集団行動という意味でも、

均一化された方が楽だからこそ、

個々の感情は後回しにされがちな気がする。

 

けれど、それを私生活にも反映させて、

そこでも「自分の感情の幅を狭める」ことって、

なんだかもったいないなって、個人的には感じてしまう。

 

人間って、感じ方の大小個人差あれど、

もっと感情の溢れた生き物なんじゃないのかなあ。

 

物の見方、感じ方、聞こえ方

感動、喜び、悲しみ、怒り

他にも、こういう言葉にできない、あるいはまだ定義づけられていない、感情たち。

 

「自分と全く同じ感じ方」をしている人なんて、この世にもしかしたら他に誰一人としていないんじゃないか、と思う。

 

だけど、私たちは日々、恐らく存在しないであろう

「感情のマジョリティー」という軸に、常に自分の感情を合わせようとする。

 

「ここで怒ると非難されそう」

「ここで笑うのは恥ずかしい気がする」

「ここで泣くと弱い人間だと思われる」

など。

 

でも、私的には叫びたい。。。

「もっと感情を素直に表に出してしまえばいいのに!!」

 

ある人の「ものの感じ方」がその人の

過去を表し、現在を形成し、未来を示してくれる

のではないかなあ。

 

感情を押し殺すことは、なんとなく、「あなたという存在」を自ら殺してしまうような気がしてしまうんだよなあ。

 

感情が抑制された中で生きていくといずれ、

自分がどういうものが好きで、どういう時に幸せを感じるかが、

わからなくなってしまうんじゃないかなあ。

 

 

 

もっとこの世の中が、様々な「感情マイノリティー」に対して、

オープンになったら素敵だな、と、

ぼんやりと考えている、雨の日の朝です。